千葉真一さん新型コロナ肺炎で死去 息子・新田真剣佑らは最期みとれず

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今月19日、午後5時26分、俳優の千葉真一さんが千葉県君津市の病院で肺炎により死去したことが明らかになった。82歳だった。新型コロナウイルスに感染し入院していた。

関係者によると、千葉さんは7月末に新型コロナウイルスに感染。入院せず自宅療養していたが、肺炎が悪化し、8月8日に入院。酸素吸入を続けていたが、回復に至らなかったという。

女優の野際陽子さん(2017年没)と1973年に結婚し、94年に離婚。長女の真瀬樹里、長男の新田真剣佑(あらた まっけんゆう)や、次男の眞栄田郷敦(まえだ ごうどん)も俳優として活躍している。

ハリウッドでも活躍 60年以上の芸能人生

出典:共同通信社

福岡県生まれだが、4歳のときに家族で千葉県君津市に引っ越ししている千葉真一さん。最期のときも、人生の長くを過ごした君津で迎えることとなった。

千葉さんは東映ニューフェイス第6期で、1959年東映入り。1968年TBS「キイハンター」でアクション俳優の地位を確立した。芸能生活は半世紀以上の60年を越え、映画・テレビドラマ・演劇などで計1,500本以上の作品に出演し、監督・プロデュースと幅広く活躍してきた。

1969年にはジャパン・アクション・クラブ(JAC)を設立し、俳優やスタントマンを育成。真田広之、志穂美悦子、堤真一らを輩出した。1991年には「エイセス」でハリウッド進出。「Sonny Chiba」(サニー千葉)の名で世界的に名をはせた。

高校生のときには全国優勝を果たした経歴もあるほどの特技である器械体操や、極真空手、少林寺拳法などを活かしたアクロバティックな演技に定評があった。吹き替えに頼らず、みずから演じるアクションスターの元祖ともいえる存在だった。2003年のタランティーノ監督映画「キル・ビル」にも出演したほか、出演者に剣術指導を施している。

野際陽子さんとは離婚 3人の俳優の父

プライベートでは、ドラマ「キイハンター」での共演をきっかけに親しくなった女優の故・野際陽子さんと、1972年に結婚した。1975年には一人娘が誕生。のちに女優となる真瀬樹里だ。しかし、千葉さんのアメリカ進出などに伴い生活がすれ違うようになり、1994年に離婚した。いがみ合って離婚したわけではなく、離婚の際には記者会見を2人そろって開いた。

1996年には28歳年下の一般女性と再婚した。結婚後は夫婦でアメリカに移住。アメリカでの仕事を中心にやっていきた千葉さんにとっては、アメリカについてきてくれることが結婚の重要な条件だったのかもしれない。

この女性との間には、1996年には長男(新田真剣佑)、2000年には次男(眞栄田郷敦)の2人の子供を授かったが、帰国後に女性が地元である京都に帰りたがったことなどをきっかけに、2015年に離婚した。

2015年に離婚したが、その前後には、54歳下の女子大生の新恋人を息子2人に紹介したという豪快なエピソードも報じられた。

奔放な私生活だった千葉さんだが、3人の子供は溺愛した。1997年に娘である真瀬と時代劇で共演した際は、「うまい殺陣(たて)をしますよ」と親バカぶりを見せながら娘の演技を絶賛。また、2019年11月に開かれた千葉さんの芸能生活60周年パーティーに真瀬、新田、眞栄田がそろった際には、千葉さんは感無量の表情で子供3人と抱き合った。

真瀬樹里や真剣佑・郷敦は父の最期みとれず

千葉さんの長女で女優の真瀬樹里が20日早朝、所属事務所レプロエンタテインメントを通じてコメントを発表した。真瀬は「私は一報を受け、仕事後駆けつけましたが、最期に立ち会うことはできず…」と最期をみとることが出来なかったと説明。

その一方で「しかし、顔を見て、お別れと伝えたい事を言うことはできました。苦しんだとは思えないほど、穏やかな顔をしておりました」とも明かした。

「少し前に、電話で父の元気な声を聞いたばかりでした。私にとっても突然のことで、まだ現実感がありません。ただただ悔しいです…」と無念の思いを吐露した。

また、長男である新田真剣佑も海外でも仕事をメインにするために今年6月に渡米しており、そのままアメリカに滞在しているため、千葉さんの最期を看取れなかったようだ。

長男・新田真剣佑 出典:ライブドアニュース

次男で俳優の真栄田郷敦も病院に駆けつけたが、コロナによる面会制限が厳しく、最期をみとることはできなかったという。真栄田は「一方的な約束をしてきました。それを守るだけです」とコメントした。

千葉さんの死を受けて、米アカデミー賞の公式ツイッターアカウントは20日(日本時間)弔意を表すツイートを投稿した。

「スクリーンで50年以上にわたって活躍したシンイチ“サニー”チバは俳優から格闘、アクションの振付師へと成長し、伝説の存在となった。彼は6つの格闘技の黒帯で『激突! 殺人拳』(74年)『キル・ビル』(03年)『ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT』(06年)といった映画にタフさと深みを加えた。彼が亡くなってしまい、寂しくなる」

と追悼の意を表明した。

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この記事を書いた人

某鉄道会社で広報を担当のち、脱サラして世界を放浪しているayaです。オランダ移住が目下の目標です。よろしくお願いします。